六月二二日
「赤旗事件」は六月二二日に開催された山口孤剣の出獄歓迎会場、錦輝館から直接行動派が街頭に踏み出した行為への弾圧から始まった。この日の歓迎会は同志たちの分裂状況を何とか打開しようと石川三四郎が両派に呼びかけ主宰をした。しかし主宰は「東京社会新聞社同人なりとも曰う、吾人は其何れなるやを知らざれども案内状に二様の別ありたるは事実なり」と、石川の努力にもかかわらず通知が二通出されている。
歓迎会の概要を議会主義派の機関紙『東京社会新聞』一一号(一九〇八年六月二五日発行)は「開会午後一時、石川君は発起人を代表して開会の辞、西川、堺君の歓迎の辞、山口君は来会同志に挨拶、外に坂井義三郎、中里介山、富岡如夢氏等より不参の謝状ありき、閉会せしは午後六時半、来会者七〇名」と報じている。
大半は余興であった。その内容は「伊藤痴遊君、霞ヶ関の爆裂弾(来島恒喜譚)と題する軽妙なる講談、寺尾彭氏の薩摩琵琶、大塔宮吉野落二段の演奏、木崎正道氏一派の剣舞数番、端山静得氏の薩摩琵琶、川中島合戦等」。
同派の関係者は弾圧時に傍観をしていた。「尚お、閉会後柏木一派の人々は警官と衝突して例の革命的狂焔を挙げし為神田警察署に拘引されたり」と蛇足的に記し数行で片づけている。
直接行動派の機関紙『熊本評論』二六号(〇八年七月五日)に竹内善朔の詳細な報告が掲載されている。「余興半ばに至り、我同志(平民社派)は先無政(むせ)無政(むせ)無政(むせ)無政府党万歳、アナ、アナ、アナ、アナーキーとさかんに連呼し、革命歌を高唱しつつ『無政府』『共産』『革命』と各赤字に白く縫箔りしたる三流の旗を真先にたて、午後六時儀容堂々として楼を下れり」。大杉たちは余興の連続に飽き足らず街頭行動に出ようとしたのである。
ところが官憲は錦輝館の外で待ち構えていた。三日前の上野で示威行進を制圧できなかったことを踏まえ当初から弾圧を意図していた。
「是れより前、十余名の警官は命を啣(ふく)みて門前を警戒し居りたりしが、斯くと見るや、バラバラと駆け寄りて旗手を包囲し『旗を巻け』と曰うや、直ちに、腕力を以て之を奪わんとせり」と旗を掲げさせないことを第一の目標にしたのである。
「同志は其の不法なることを詰責しぬ、堺、山川二兄は其の説諭に努めぬ、而かも猟犬の如き警官等は猶も包囲して赤旗を奪わんとす、事態此の如く形勢は愈々不穏となれり。群集は潮の如く寄せ来り、警官は餓狼の如く増加しぬ、而して神田警察署は実に指呼の間にあるなり。されば忽ちにして三十余名の第一回応援隊は其の剣覇を握りて疾風の如く来りぬ」
三本の赤旗
至近の位置にある神田警察署から三十余名の第一回応援隊が到着する。「此の状を見て憤怒せる我同志は其の赤旗の奪われざらんことを誓う。於是乎(ここにおいてか)一場の活劇は演ぜらるるに至りたり。斯くて三流の赤旗は或は高く揚り、或は低く隠る、其の低く隠れたるは敵に奪われたるの時にして、其の高く揚りたるは敵の手より奪い還したるの時なり」三本の旗を官憲による争奪から守る奮闘が描写されている。 「戦線は漸くにして広がり行きぬ。…我同志中最も勇敢に戦いたる大杉、佐藤、荒畑の三兄を始めとして或者は衣服を寸裂せられ或者は傷けられぬ。斯して七八十名の警官と二十余名の同志とは一時間余の戦闘を継続しぬ。……同志は其の旗の赴くまにまに三方に別れぬ。堺、山川二兄等は警官の慰撫に尽力したりしが其の効無くして、非常召集は行われ敵は新手を以て要所要所を固めたり。戦闘は依然として継続しぬ、…」
大杉栄、佐藤悟、荒畑寒村と若い同志が先頭にたち一時間余りの攻防が続いた。堺利彦、山川均は官憲に対して現場から引くことを説得している。三本の旗の行方に即して三か所に分れた攻防である。しかし「先づ『革命』の旗は何処にか没し去れり。次いで『共産』の旗も巻かれたり。唯だ『無政府』の旗のみ最後まで其の色鮮かに外国語学校附近に於て大活動をなし居りたりしも、是れ亦七時頃に至りて数十名の敵の手の為に奪取られたり」
歓迎会の閉会は六時半であったが大杉たちは内容に不満で六時に錦輝館を出ていた。一時間余りの攻防の結果、『革命』、『共産』『無政府』の旗が官憲に奪われた。
「此の戦闘に於て荒畑勝三、宇都宮卓爾、森岡永治、百瀬晋、村木源次郎、管野須賀諸君は錦輝館前より神田署附近の間に於て補われ」、「大杉栄、徳永保之、神川松子の諸君外国語学校附近に於て拘引せられたり」、
「佐藤君は海松の如く裂かれたる衣を纏いて神田橋方面に長躯せしが、其処なる非常線に羅りぬ、堺、山川、大須賀、小暮の諸君は徐々に神保町通りを引上げ来りしが又一ツ橋派出所附近にて敵の手に落ちぬ。吁万事窮す、百余の同志は活路を求めて思い思いに落ち延びたり。」と勇壮な同志だけではなく官憲の横暴を言論により止めようとし旗を預ろうとした堺利彦、山川均、女性同志までが拘引された。
「越えて二四日我勇敢なる同志の一四名は、治安警察法違反、官吏抗拒、殴打創傷罪の名の下に検事局に押送され、今は東京監獄獄裡の囚人となれり」
「…東京社会新聞社の諸君及基督教社会主義者の諸君は錦輝館楼上に在て、我が同志の戦闘を傍観し最も慎重の態度を執られしより此厄を免かれ給いしこと、終始警官の慰撫に力めたりし故を以て堺、山川諸兄の逮捕されしことなり」
傍観していた議会主義派と基督教社会主義者系列の面々を堺、山川の行為と対比し皮肉をこめて批判している。
『熊本評論』紙同号の五面には山川均の六月二三日発の神田警察署よりの便り、「留守」家族の大杉保子や堺ため子の通信が掲載されている。堺ため子は東京監獄に面会に訪れ、そこで一四人が無期限の接見禁止になっていたことを初めて知り怒りをもった内容である。
また管野須賀子は一年後に幸徳と共に同志たちと発刊した『自由思想』紙(〇九年六月一〇日)において回想記を掲載している。
幽月女《囚はれの記(一)》「一歳の昔となる…女監の模様…六月二四日、検事局の調べが一通り済んで、同志一四人が……東京監獄の門内へ引込まれたのは、日も暮れ近く、夕の涼風が襟に冷たい頃であった」。警察署から監獄への移監の情景である。現在東京監獄跡地の処刑場であった近辺に日弁連が建てた刑死者慰霊の碑がある。管野は「大逆事件」により三年後の一九一一年一月二五日に処刑される。
『熊本評論』は続けて二七号(七月二〇日)に一面で《寄付金募集》申込所、熊本評論社と救援カンパを呼びかけている。
「同志諸君、読者諸君、諸君の知れる如く、我々の勇敢なる同志一四名は、二二日の神田事件に関し、端なくも陰悪なる敵手に囚われて今や実に云うに忍びざるの圧虐を受けて居ます。或は乱打せられたり、或は脾腹を蹴られたり、有らゆる圧虐は到底娑婆に於ける我々の想像に及ばぬ処だろうと思います。………」
しかし二八号(八月五日)では《本紙告発せらる》として「前号第一面に記載せし寄付金募集の一文は新聞紙条例違反(秩序壊乱)を以て告発せられたり、…熊本評論発行人兼編集人 松尾卯一太…本紙の公判は来る五日午前八時の開廷なり」と救援カンパの呼びかけ自体が弾圧、被告とされた報告がある。松尾は二年後に大逆事件の被告とされた。
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