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三年前の二〇〇八年は、「無政府」「共産」「革命」の 各赤字に白く縫箔りしたる三流の旗を掲げ街頭に出でんとした際に官憲により弾圧されたいわゆる「赤旗事件」から百年であった。大逆事件につながり大審院判決理由においても言及される大弾圧である。しかし先行の社会主義運動史の記述で項目にあげられるが詳細は語られない。さらに三日前の上野駅頭での「赤旗」を翻した行進と同志たちの奮闘はほとんど知られていない。弾圧から百年にまとめることはかなわなかったが、今回、若き大杉栄、荒畑寒村たちの奮闘、堺利彦の公判での弁論の巧みさ、熊本評論社による公判支援、(公判報告、寄付金募集)の呼びかけ自体が弾圧されたことを伝えたい。


上野停車場

     

荒畑寒村が交番に拘束され同志たちが実力で奪還する快挙が「赤旗事件」の三日前、一九〇八年六月一九日にあった。結社の禁止、機関紙の発行停止や演説会の中止と一方的に活動を弾圧されていた日本の初期の社会主義者たちが街頭での示威行動の貫徹と官憲による拘束を打破したのである。

 その記事が百年前の熊本発の社会主義運動の機関紙『熊本評論』に掲載された。他の地域での直接行動派の機関紙発行は困難に陥っていた。

 東京の同志からの報告として一九〇八年七月五日発行二六号に掲載。官憲と同志の大衝突、赤旗の擁護》の見出し「評論社諸君、昨六月一九日我等同志は上野停車場附近に於て、又もや官権との大衝突を起しました、而して事の原因は言うまでもなく、当局俗吏の無法なる干渉、謂れなき圧制、乱暴なる喧嘩仕掛けより起ったのです」と書き始めている。 

上野に同志が集まったのは山口弧剣(義三)上野停車場で出迎えるためであった。山口は『平民新聞』への執筆記事「父母を蹴れ」や『光』の発行責任者として大杉栄の「新兵諸君に与ふ」などの記事掲載が新聞紙法違反となり実刑判決を受け一年以上も下獄していた。一八日に刑期を終えて仙台の宮城分監を出所し、一九日午前時半に停車場に到着した。

「又もや官権との大衝突を起しました」というのはこの年の一月、金曜会主催の演説会が官憲により弁士中止、集まった労働者を巻き込み社会主義者への弾圧がひきおこされた件である。この中止になった演説の内容はトーマス・モア「ユートピア」に触れたものであった。堺利彦、大杉栄や山川均が実刑判決を受けた。

同日は山口孤剣君の仙台より帰り来のを迎える為に十余名の金曜会連と東京社会新聞派の者十名足らずと木下逸見其他の人々数名とが上野駅に集った、一同の駅に着いた時孤剣は早や下車して居た、西川の来るを待つこと約一時間、彼は来るや否や直に孤剣を俥で自宅に拉し去った、敵も味方もアッケに取られた様子であった」   

この報告を読むと議会派の西川光次郎が山口を自派に囲い込むために人力車で連れ去ったようである。出し抜かれた同志たちは後に西川宅に向かう。両派の反目が反映された上野駅頭の情景である。

四本の赤旗

残された同志たちの立場はなかった。しかし旗を掲げ革命歌を歌い西川宅がある本郷に向かって行進を始めた。「孤剣の車の走り去るを眺めつ吾々は駅の入口に四本の赤旗を振りかざして勇壮なる革命歌を一回歌った、下谷署からは某警部が十余名の制服巡査と無数の犬とを引率して来て周りを警戒して居た、革命歌の一回終ると同時に四本の赤旗を先頭に一同は行進して本郷に行こうとした二三間進んだ時警部は吾等の旗を巻けと迫った、併し旗は四本共益々高く掲げられた、」しかし官憲により「旗を巻け」と弾圧を受け行進は阻止され荒畑が拘束されてしまう。                  「今迄控えて居た巡査の一群と無数の犬とは此時一時に飛びかかって旗をモギとろうとした、揉んで揉んで揉み散らした揚句、荒畑寒村は無数の巡査と犬とに擁せられて両手を高く後ろにねぢ上げられて駅前なる交番の中に引きづり込まれて居るのを見た。此時彼は猶お盛んに無政府主義万歳を連呼して居た、一同の視線は一に彼に集った、そして彼を取返さんと犇めいた、警官は最早彼と一本の赤旗と×××を護る為に殆ど皆一所に集った、此時猶お交番の奥の方で無政府主義万歳と云う荒畑の嗄れた声が絶間なく聞えて居た

無政府主義という言葉が直接行動派のスローガンとして使われている。「少時警官と少ぜり合いのあった後大杉と百瀬と此頃横浜から来て居る村木と云う男の三人が交番の中に跳り込んだ、中は立錐の余地もない皆直に立って騒いで居るばかり、但し百瀬が其の駒下駄で傍らの犬を蹴って蹴って蹴散らして居るのを見た、」。村木源次郎はまだ同志たちの間で知られていなかった。

中なる四人と外に在る一同と相呼応して無政府主義の万歳を叫ぶこと数回、今度は一同がドッと交番の中を目がけて押寄せた、建物の倒れなかったのが寧ろ不思議に思われる様な勢いで、そして押寄せた一同の引返す時に、中なる四人も共に、旗は不相変高く掲げられたまま、万歳々々と連呼しつつはねて出て集った

十名余りの同志たちであろう。木造の簡易な造りと思われる交番を倒す勢いであった。「四本の旗は又た先頭に翻った、一同之に続いて革命歌を勇ましく歌いつつ進行した、此時分警官の一群が何うして居たので頓と分らぬ、が唯警部丈けは執着くも旗を目かけて飽く迄も之をモギ取ろうと苦んで居たのを見た、彼は上野から電車の交差点まで、横面を撲られ洋傘で頭を駁(ぶ)たれ、首を引掻かれ、時には誰に首ッ玉にまくり付かれて危く倒れんとしたり杯して、踉々として付き纏うて来たが、此処迄来ると流石に彼も見切りを付けて、サモ口惜げに佇立したまま眺めて居た、」と一人官憲の中で警部だけが旗を奪うことに執着をしていた。「四本の赤旗は陣頭に翻って居る革命歌は間断なく歌い続けられた、切通しから春木町を経て西川宅迄此の勇壮なる行軍は何物にも妨げられる事なしに衆目を聳動しつつ無事に到着した

三十分程度の距離であろうか上野を離れた後は官憲に阻止されることなく歌を続けながら行進を貫徹した。「西川宅前で山口君の健康を祝し無政府主義の万歳を連呼して、これで一同分れ去った、実に近来珍らしい勇壮な示威運動であった、殊に一旦捕らえられたる人と旗とを奪い返して思う様警察権を蹂躙して而かも何の失う事もなしに斯かる勇壮なる示威運動を成し得たと云うことは一同の歓びに堪えない次第であります(二〇日認)」。  

この勇壮な行動が官憲による錦輝館前の厳重な配置をもたらした。同志が報告文を執筆している時点では予想されなかった。

石川啄木

三日後の六月二二日の大弾圧世に言う「赤旗(あかはた)事件」である。旗には無政府共産、革命の文字が縫われていた。石川啄木は二年後に「所謂今度の事」と論評を執筆した。しかし当時は発表が困難なまま啄木は死去した。公にされたのは、ほぼ半世紀後の一九五七年であった

「其の一つは往年の赤旗事件で有る。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して。警吏の為に捕われた者の中には、数名の年若き婦人も有った。其婦人等──日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、万に控え目で有るべき筈の婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、《我は無政府主義者なり》と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた」

石川啄木が語る「所謂今度の事」とは幸徳秋水たちをめぐる政府の発表、いわゆる大逆事件のことである。啄木は当時の「国民」の心情を描写している。 

続く