近世無政府主義中扉


 次て山川均君は立てり。

……警官の証言は殆ど支離滅裂にして、……………佐藤悟君のみは警部の訊問に答弁せず、……………余は一ツ橋交番の前を通過せし時、警官が『君等は錦輝館の帰りなるや』と問いしゆえ、然りと答えしに、然らば一寸と立ち寄られたしと請いしかば、其の儘同派出所に入り後神田署に拘引されしなれば後藤巡査などに捕獲さるる理由なし、兎に角、警察は有ゆる捏造をなして吾等を陥擠せんとするが如し。余は本件に関して、責任を免れんと云うに非ず、然れども、今日の横山巡査の如き証人の一言に依りて罪に処せらるる事は断じて忍びざる処なり』云々、同君は尚お木下尚江君の証言に対し激烈なる駁撃を試み、其の誤謬を指摘せり。

[五面]

 次で寒村、荒畑勝三君は立てり、曰く

……………判官諸公、巡査の証言に依れば、三本の旗が一時に錦輝館の門を出で、一時に禁止命令を受けしが如くあれどもも、全く虚言なり、……………余等が神田署に引致せらるるや巡査の態度は俄然として一変せり神田警察は吾等を便所に行かしめず、食事をも供給せず。茲に於てか吾等は巡査を罵倒せり、同じ平民階級に在りながら、其の味方を苦しめんとする各

巡査等は、一人一人吾等を引出して殴打し、若くは頭髪を引張れり、殊に彼等は大杉君を引出して両足を持ちて床上を引き摺り、長き頭髪を引張て頭部及び各所に数箇所の負傷をなせしめたり、大杉君は是に対して医師の診断書を求めたり、然れども警察医は宜し宜しと答えたるまま遂に診断書を与えざりき。裁判官!斯くの如きの暴力に抵抗したるの故を以て罪に問わるべくんば、余は喜んで罪に服すべし』悲壮激越の調、満廷を圧し、声涙共に降るものなりき。

 佐藤悟君は次で立てり、曰く「余は各所に負傷し、検事局に於て之を示し検事も亦是を認めたり、然れども、被告の言は一として用いられず、却って犯罪者として陥擠せらるる事は遺憾なり。若し又、私有財産制度を保護する法律ならば、何故吾等の私有物を保護せずして冒横を事とするか」意気軒昂、蛮声満廷に満つ。森岡永治君は皮肉なる冷罵の調を以て検事に向えり、先づ、「検事閣下の論告は、虚言の分量の多かりしだけ、それだけ無力なりき」と揶揄一番し、更に事実の相違を指摘せし後「警察が吾等に対し陰険なる手段を弄するは、啻に此の一時に止まらず」とて、出版及公開演説に対する禁止命令及び、或方面に於る同志を間接に迫害して失業せしめし事実等を列挙したる後「何時の裁判も、厳罰に処すべしという検事の御論告なれば、事新らしくと云うの必要も無りしに、又もや厳罰に処せと論告せられしは至極滑稽なりと冷罵し、更に…………最後に「証拠品なる三本の赤旗は、大切に保存されん事を乞う、日本政府が一度△△して、理想的社会を実現するの時之を紀念品たらしめん」云々と結ぶ。

 次で神川女史は「繊弱き、婦人が仲裁の労を取り得ずと検事は論告せられたるも自分は婦人なればこそ仲裁し得ると信ずるなり。彼の伊庭想太郎が、星亨を刺さんとして其玄関に赴きし際、可憐の小児の出づるに遭い哀れを感じて遂に空しく引き返せしと云う話もあるにあらずや、自分は社会主義なるが故に罰せらるると云うならば甘んじて服罪すべし、されど警官と同志を調停せしの故に罰せらると云うに於ては、断じて服罪する能わず」と述べ管野幽月女史は「法律は個人の思想を罰する事を得ざるべし、飽まで公平の裁判を望む」云々と述べ、閉廷す、判決は29日午前9時。

31号 1908.9.20

<悲壮なる最後の法廷> 二面

「錦輝館赤旗事件の判決言渡しは829日午前11時服部検事立会、島田裁判長に依り言い渡された。判決左の如し

重禁錮26月罰金25円 大杉栄

同  2年    20円 堺利彦

同          山川均

   (註 控訴するも原審のまま)

同          森岡永治

同  16月  15円 荒畑勝三

同          宇都宮卓爾

同  1年    10円 大須賀さと

   (註 控訴審で執行猶予が付く)

同          村木源次郎

同          佐藤悟

同          百瀬晋

同  1年    2円 小暮れい

   (但し5年間刑の執行猶予)

同          徳永保之助

(但し5年間刑の執行猶予)

無罪         管野すが

無罪         神川まつ

寒村荒畑勝三君は、猛烈疾呼して曰く『裁判長!』裁判長は稍々青味勝ちたる顔を仰て寒村君のを一瞥した。寒村君は猛獅の吼ゆるが如く、

『裁判長! 神聖なる当法廷に於て、弱者が強者の為に圧迫せられた事実の、明瞭となりしを感謝します、何れ出獄の上御礼を致します』

 次で大杉君も亦『裁判長!』と疾呼して何事をか言わんとした、然し驚愕の色を眉宇に浮かべたる裁判長は、『今日は言渡しを仕た迄だ、不服があれば控訴せよ』

と言い棄てて去んとする。茲に於て大杉君は『無政府党万歳!

と叫んだ他の同志も我劣らじと『無政府党万歳』を連呼した。』傍聴席には60余名の同志が列席し、新聞社席には都下の新聞記者及幸徳秋水、坂本克水、徳永国太郎、等の諸君が着席して居た。

 佐藤悟君は例の蛮声で、『是が所謂法律だ吾々は唯だ実行!!実行!!

 大杉君は、呵々大笑して居た。非常に感情の興奮する時、吾等は彼の此の哄笑を聞くのである。曾て本郷平民書房楼上に於て、金曜講演迫害事件の有た当夜、同志の一人がユートピアの話を仕て臨検警部の講演中止、集会解散を食った時、呵々大笑したのは大杉君であった他人が血涙を振って憤る時に、哄然として大笑するのが大杉君の癖である、吾等は彼れの此の哄笑を聞く毎に、悲憤の涙が零れる。堺君は幸徳秋水君に。『社会党の運動も是で一段落だ、折角身体を大事に仕手呉れ』と言いつつ、相顧みて一笑した、ああ寂しき一笑、無限の感懐に満ちたる一笑。

 山川君は、毫も興奮の状が容貌に現われて居無かった、静々笑って、悠然として、も出て行った、ああ痩せたる彼れの後姿!!三ヶ月有半の牢獄生活に、青春の血潮を涸渇されたる彼は、今や再び苦き経験を繰り返さんとす、ああ恐ろしき監獄の烈寒………………

 看守は十四名を牽いて撻外に出した、長き広き廊下に溢れたる群衆は、愁いと笑をもて目送する、同志の或者は再び万歳を連呼した。而して『ああ革命は近けり』と、声高々に歌うたいつつ。

大いなる運動、大いなる活動は、茲に時期を劃した、歴史は更に次の頁に移らねばならぬ。如何なる頁か、其は唯だ為政者の自由なる想察に任せる!!(有生)