正義を求める心 2

公判筆記掲載


予審を経て一四人の公判は八月一五日に始ま『熊本評論』二九号(八月二〇日)は「赤旗事件公判筆記」を掲載している。一面と二面を占めている。

唯一発行を継続できた直接行動派の機関紙たる『熊本評論』は同志たちに弾圧されるや公判闘争の機関紙の役割を担い始めたのである。

 社会主義者の法廷闘争は二年前の「電車賃値上げ反対」騒擾事件公判においても取組まれたと推測をするが、公判筆記を全文掲載した社会主義の機関紙はこの『熊本評論』紙がめてである。

「公判筆記」は被告とされた同志たちの発言を余すところなく記録し

前書きに「…所謂赤旗事件なるものは、当時資本家新聞の捏造的報道に依り、全く社会に誤伝せられたり、本筆記は八月一五日東京地方裁判所に於て開廷せられたる公判筆記なれば、事件当時の事情及事件の真相を知るに最も正確なるものなり。八月一六日、東京、有生」。

新聞は当時の唯一のマスメディアであった。その新聞が政府、官憲寄りの記事しか掲載しないことに怒りをもち「筆記」を掲載し法廷での攻防戦を掲載している。

「八月一五日午前九時、一四名の同志に対する治安警察法違反、官吏抗拒事件は、東京地方裁判所第一号法廷に於いて満田検事立会島田裁判長に依り開廷せられたり更めて記す、当日の被告左の如く堺利彦 山川均 大杉栄 荒畑勝三 宇都宮卓爾 森岡永治 徳永保之助 佐藤悟 百瀬晋 村木源次郎 管野須賀子 大須賀里子 神川松子 小暮礼子」

無政府主義者

裁判長により訊問が続く。「被告らは六月二二、日石川三四郎の主催に係る山口義三の出獄歓迎会に赴き開会後同日午後六時『無政府』及『無政府共産』と記せる赤旗を翻し、場外に出て、無政府党万歳を絶叫し、亦は『革命の歌』を高唱したりしや」と治安警察法に違反の行為があっかどうかの訊問を始める。

堺利彦は「余親ら赤旗を翻せし事なし。余の場内に居りし際同志の一人が、門前に混雑ありと報じ来りしより、馳せ出で見たるに同志と警官の間に騒擾開始されて居れり」「被告は無政府主義者なりや」(註 原文が訊問の応答事項では表記を一文字としている)

「否な余は社会主義者なり」「共産なる語は社会主義者一般に認められ、且つ信じられ居るも、余は自ら進で未だ無政府なる語をも用いし事なし」

次に裁判長は山川均に向い訊問を発した。

「余は旗を会場に持参せず然し『革命の歌』は会場にて歌えり」

裁「被告は無政府主義者なりや」

「自ら無政府主義者なりとは言いし事なきも、無政府主義の説明如何に依っては、社会主義者は何れも無政府主義者と言うも可なり」

裁「被告の会場を出でし時赤旗を見しや」

「旗は一本高等商業学校の方にあるを見たり」

大須賀里子は「……未だ主義者としての資格は無からんと信ず、無論無政府主義に関しては、充分の智識なし」。

百瀬晋は「(無政府党)万歳を叫び歌を高唱せり」。

村木源次郎は「基督教社会主義者を以て任ぜしも入獄後無政府主義に傾き来れり」「万歳は叫ばず、然し革命の歌は唱えたり」。

裁判長は「赭衣を纏い、眼光爛々たる大杉君を呼びて立たしめ」旗の製作に関する訊問をなす。大杉は「旗は余の発意にて余の製作したものなり…」

裁「革命の歌を唱え無政府党万歳を絶叫せしか」、大杉は「大に然り」と答える。

荒畑寒村は「……無政府党万歳を叫びたり」

佐藤悟は「……無政府党万歳と革命の歌は率先して叫べり」「無政府主義も社会主義も究極の目的は同一なり」

徳永保之助君、森岡永治君に対しても同様の訊問あり二君共に「…無政府党万歳は絶叫せり、主義としては無政府共産主義を抱懐して居る」

宇都宮卓爾に「旗を場内に持ち込みしは他派の社会主義を困らす為めなりしか」と問う。「否な、自家の旗幟を鮮明にせんか為めなり」の答え。

小暮礼子は「自分は目下社会主義の研究中なるが故に、未だ無政府主義に就ては分明に理解せず」    

神川松子は「…主義者として自分は、社会主義者無政府主義者其の何れとも決せず、近き将来に於て発表するの機会ありと信ず」

管野須賀子は「自分は最も無政府主義に近き思想を抱持し居れり」                  

裁判長が被告とされた活動家の思想を問い、「無政府主義者」であるかと、各被告に確認をしているのである。それぞれの応答に無政府主義への認識の差があり興味深い。                        

第一の旗手大杉栄

次に治安警察法違反に関わり「旗を巻け」という官憲の命令が現場であったかどうかの問答になる。筆記者は「巡査大森袈裟太郎が、被告等の翻せる赤旗を見て治安警察法違反なりとて、掲揚するを禁止せざりしや如何。是に対して山川、大須賀、百瀬、佐藤、徳永、森岡、宇都宮の諸君は何れも、禁止命令をうけざりし旨を答弁し、第一の旗手大杉君は左の如く答弁せり」と記述。「同志は会場に居たりし間、無政府党万歳を叫び、革命の歌を唱えしも、場外に出づる時は最も静粛なりしに拘らず、門を出るや忽ち一名の巡査飛び来りて『旗を巻け』と言い様、赤旗に手に掛けて奪わんとせり。されど余は何等の命令も受けし事なし」

「第二の旗手荒畑君」は「門を出るや、突如として三四名の巡査飛び来りて、旗を奪わんとせしより、余は何故奪わんとするか、理由を示せ、理由をしめさずば旗は渡さしと争えり、然し何等の禁止命令にも接せず」

大杉は再び「前述の如く旗を持て場外に出るや、門外に待伏せ居たる警官は『旗を巻け』と叫びて、強て是を奪わんとす、余は『理由なくして所有権を取んとするものは、強盗なり』と叫びて争えり、此時続々と同志の退場し来るを見し警官は更に他の旗に飛び行きて是を奪わんとしつつありたり。…」


村木源次郎は「余は商業学校の前にて、大杉君の旗を掴み、大杉君に助力せしが、同君の放せし後、互に旗を奪い合つる中に警官数名に依って捕えられ神田警察に送られその後旗の如何に成りしかは之を知らず」


続けて神川松子の証言になるが神川は『無政府』の旗を預るということで官憲を説得し、管野と共に神田署に検束された同志がいるということで面会を求めに向かう。


神川松子は「高等商業学校前にて、奪い合せる『無政府』の旗の方を、警官と同志の承諾の上にて、自分が預る事にして一先づ仲裁をなし、軈て其れを更に大杉夫人に預け、錦輝館前に赴かんとせしに、早や神田署に拘引せられたる人ありとの事を聞きしより、管野スガ子と共に神田署に面会に赴けり。然るに神田署にては面会を謝絶せられしかは門外に出でしに、恰も門外にて旗を奪いて今しも帰り来る二名の巡査に会逅せり。自分は其一名の警官に向い『其の旗は先刻警官承諾の上にて預かりしもの故返附されたし』と求めしに、一名の警官は突然管野を突き飛ばし、他の一名は自分に向い『貴様は顔に覚えがあるぞ』と言い様忽ち自分を捕獲せり、管野を突き飛ばせし巡査の顔は三角なりき」(哄笑廷内に起る)

管野須賀子は「今神川松子の述べし処と略同様なるが、自分は警官が、旗を渡さぬ故理由を訊さんとする間もなく、突然突き飛ばされ、且つ、非常なる暴力を以て腕を捻じられ、警察の門内に引かれて行きたり」。

荒畑寒村は「大杉に稍遅れて錦輝館の門をでや、突然門の両側より三四名の警官現われ、飛び蒐(かか)りて旗を奪わんとす、『何故奪わんとするのか理由を示せ』と迫りしも其れには答えず、警官等は旗を神田署の方に引き行かんとす、其の中に百瀬君来り、自分と協力して旗を取られじと争いひしも、新に警官二三十名加わり来る吾等二人を包囲して旗と共に神田署へ引き摺り行けり」百瀬君も同様の答弁をなしたり」

大杉たちは「旗を巻け」ということが禁止命令であることを承知していない。また掲げることが禁止される根拠は無いと認識していた。警官たちもその場では行進をさせないことを主眼にし、街頭に出ること自体を阻止する目的であったと思われる。             

訊問は官吏抗拒罪に関して予審決定書による詳細な審問になる。大杉は決定書の官吏抗拒の第一の理由を否定し「余は巡査の脾腹を突き亦は殴打したる事なし」と述べる。森岡は大森巡査の指を噛み付き負傷せしめたりと云うを否認して「大森巡査は指を噛まれて恨骨髄に徹し余の後を尾行し来りて捕縛せりと言えども、余は大森巡査に捕縛されしにあらず」と述べ、           

堺は赤旗奪合に関連せりと云う事実を否定して「余は神川女史と共に巡査及び同志に注意して双方合意の上に、旗を神川女史に預くる事にせしめしも、官吏に抗抵せし覚えなし、亦余は何等も抵抗するの遺志すらなかりしなり」     

山川も決定書に記せる官吏抵抗の理由を否定して「余は閉会後美土代町青年会館の方に赴かんとせしに、商業学校前に於て騒擾のあるより引き返し行き見たるに、同志と警官が赤旗を渡し渡さんと言い争い居たれば、余と堺君は其の双方を慰籍し、赤旗は婦人に託する事となし、奪い合いは一先づ茲に落着したり。余は此処に止まるの要なければ将に家に帰らんとせしに恰も神田署附近に於て一団の群集喧騒せるより驚きて行き見たるに引致されし後なりしなり。依て余は再び帰途に就か引返せしに、突如として一隊の警官現われ何故か余を捕縛せり、余は警官に抵抗せず、亦断じて赤旗に手を触れたる事はなし」と述べる。

 大須賀は「神川松子が旗を預る迄自分は唯傍観し居たるが、神川は更に錦輝館に行きしゆえ、自分と大杉夫人とは旗を巻て帰路に就かんとし、七八間程行く中に警官来りて無言にて旗を奪いたり。旗は同志より預けられたるの責任ありたれども、如何とも仕難ければ黙し居たり、旗には自分の関せし処は唯其れのみなり」

 小暮は予審決定の事項を否認し「自分は警官に唾を吐きかけし覚えなし、唯だ村木の旗を持ち居たる際、神川と共に同志に注意をなせしと、巡査が暴力にて引張りしゆえ其無礼を責りしとのみなり」                

宇都宮は「余が荒畑君の旗竿を掴みしは事実なれども、警官の胸を押たりと云うは決定書の誤りなり。…」徳永は「大杉夫人と大須賀女史が預かりたる旗を持居たる際、一人の警官は突如横合いより其の旗を奪えり、余は之を取り返さんとしせしも遂に奪われたり」                              

 以上で略審問が終り裁判長は予審調書(数十名の巡査の口供に拘る)を読み聞せ、これに対する各被告の弁明を聴く。審問においてそれぞれの現場での行為が仔細に語られた。

大杉は「判官諸公、吾等は面会を禁止せられ、書信の往復を断たれ、犯罪に就いて会議相談の上答をなす地位にあらず然れども彼の数十名の巡査は、被告の罪状を造る可く、自由に相談し、自由に疑義し、自由に捏造するの地位に在れりされば彼等の口供になる百の調書も、千の調書も、何等の信憑たらず、唯之一の空文のみ、諸公幸に是を諒とせられん事を」と被告人とされた者の権利を主張する。午後五時に閉廷。筆記の報告は新聞記者席で幸徳、坂本清馬が傍聴していたこと、「場外には百余名の群集溢れたり、評論社の新美君、志賀君、清国同志、在京一般同志、何れも朝来より来廷せり」と描写し、第一回の公判筆記を終わりとしている。