1906年運動会
「書誌言及/同書より画像転載」
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『添田啞蟬坊流生記』19561125日、

添田平吉は添田啞蟬坊の名で演歌者として活躍。日露戦争の頃に堺利彦など社会主義者との交友が始まり自身も活動を始めた。

回想記の本書は1940年に刊行された元本の紙型を遺族から提供され使用。

友人たちの序文、図版グラビア、年譜などを加えて「唖蝉坊顕彰会編集委員会」の古河三樹、入方宏により制作、「添田唖坊顕彰会」により刊行された。

回想から1910年代以降の活動記述は大幅に省かれ編者は「行間にあるものをおよみとり頂く外ないのかも知れません」と記す。

底本とした東京都立図書館所蔵本は土岐善麿寄贈とあり奥付には限定500部の内008番とある。

堺ため子からの写真提供のグラビアは貴重。

1903年頃 の本人全身写真、1906年秋の戸山ヶ原の運動会、集合写真には福田英子、堺ため子、竹久夢二、幼い息子知道、堺利彦、中里介山、安成貞雄、師岡千代子、渡辺政太郎、戸恒保三ら初期社会主義社たちが写る。

他に1914年の自由倶楽部時代の堺利彦演説会、添田、小生夢坊、久板卯之助、渡辺政太郎、遠藤無水、吉川守邦他が写る。

1944年の浅草での「囲む会」にも著名者多数、「序文」は九人、秋田雨雀、安成二郎、田辺茂一など。

76の歌詞が本文中に随時、収載されタイトル索引も付されている。巻末に「追憶談笑の会」から築比地仲助、堺為子の抜書きが掲載。

 1885年、十四の春に次男であった平吉は大磯から東京の叔父の家に出される。船乗りや土方を経験。日雇いで働き横須賀に住み壮士節演歌者の群れに入る。京橋区新富町の青年倶楽部に入り自由党選挙運動に参加。日露戦争前後に堺利彦から「家庭雑誌」にラッパ節を掲載したいと頼まれる。1906年、唖坊と号し電車値上反対運動に堺為子と添田の妻が反対ビラで検束される。西川光二郎と東北遊説、仙台の佐藤悟、北の旅、札幌では竹内與所次郎と出会う。妻は婦人演説会を開く、藤田浪人や大杉栄も演歌を少しやると記述。兄が原子基に誘われ北海道に移住するが失敗をする。「大正期は素通りより致し方ない」と書きつつも貧民、私娼問題に取り組む回想あり。1925年より各地移動、四国遍路を1931年より五年続ける。
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補遺 夢二研究のかぐら川さんが
『彷書月刊』2008年2月号「己を飾らず偽らず 管野すがのみちくさ」における故田村治芳さんの発言による該当写真を探求。
『唖蝉坊流生記』収載の写真が該当写真ではないか(堺利彦/堺ため子旧蔵、現所蔵は大原社会問題研究所)と教示させて頂く。以下、田村発言と同ページ挿入写真を画像により引用。リンクURLは「めぐり逢うことばたち」(かぐら川さん運営)http://kaguragawa.exblog.jp/22815468/

田村発言2

石川:山口入獄記念
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田村発言1

管野特集表紙